ジェラール・グイノ神父の説教



2018年  B 年

年間第13種自治から

年間第22主日まで



年間第13主日
年間第14主日
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年間第16主日
年間第17主日
年間第18主日
年間第19主日
年間第20主日

年間第21主日
年間第22主日


        年間第13主日 B年   201871日     グイノ・ジェラール神父

           智恵 1,13-152,23-2  2コリント8,7-913-15  マルコ 5,21-43

  病気や死に直面していても決して諦めない二人の人物をマルコの福音は紹介しています。

  ある婦人は12年間に亘って病気で苦しんでいます。 それは病気のせいだけではなく、ユダヤ教の掟により彼女は不潔な者と定められ、社会的な交わりと夫婦としての絆も失っているからです。 ユダヤ教では彼女が群集の中に入り込むことを厳しく禁止しています。 そういう理由でイエスの服に触れるために、彼女は決死の覚悟で群集に密かに紛れ込みます。 すると、イエスの服に触れた途端にあっと言う間に彼女が癒されました。 「どうして律法を守らなかったのか」、「あなたは不潔な者だ」と言って彼女を咎めずに、かえってイエスは「あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい」と彼女を励ましました。 そう言いながらイエスは、彼女が失った社会的な交わりと夫婦の絆を再び彼女に取り戻しました。

 自分の愛する幼い娘は近いうちに死ぬと会堂長のヤイロは良く分かっています。  自分の子供が癒されるように、諦めずに、ヤイロはイエスに無理に頼みます。 会堂長の家の人々が来て「もう遅すぎる、子供が死にました」と告げたときに、「恐れることはない。 ただ信じなさい」とイエスはすぐヤイロを勇気づけました。 今、癒された婦人の信仰を持つようにヤイロは招かれています。

  同じように、私たちも諦めずに信仰によって生きるようにイエスは誘っています。 人生の悲劇に直面して「それを変えることができないから」と言って、人は簡単に諦めます。 日常生活の思いがけない出来事や試練に直面しても、私たちは自分のうちに希望と信仰を養い強める必要性があります。 決して私たちは諦めずに、モーセのように「腕を下してはいけません」。 ご存じのようにモーセは一日中に諦めずにイスラエルの民の敵が完全に滅ぼされるまで、二人の友達に支えられ、天に向かって手を高く上げ続けました(出エジプト17,8-13)

 信仰が強くても弱くても、人間的な最後の手段がもう効力のないものとなっている時に、イエスの傍に近寄ることです。 キリストの時代の医者たちは女の出血病を治すことができず、またヤイロの娘の命を救うこともできませんでした。 私たちもヤイロに言われたイエスの貴重な励ましの言葉を心に納め、思い巡らすことが肝心です。 「恐れることはない。 ただ信じなさい」と。 聖書全体の教えを通して、父なる神もイエスも何度も繰り返しています。 「わたしはあなたと共にいて必ず救い出す」(エレミヤ1,8)と。

  神に対する揺るぎない信頼を育てるなら、日常生活での私たちの生き方と態度は180度回転して、変わるでしょう。 ですから未来を恐れて、思いがけない試練やコントロールできない出来事を見て、すぐ諦める人にならないように、神のうちに希望と信仰を置きましょう。 世の終わりまで、毎日イエスが私たちと共にいることを知っているので、救い主であるイエスの友となり、親密に平和と信頼のうちに生きることを学びましょう。 イエスをまだ知らない人々が、私たちを見て次のように言うでしょう。 「どうしてあなたたちは不幸の時であっても、試練の時であっても、そんなに強い確信と希望をもっているのでしょうか」と。 その時私たちは、次のように答えることができるのです。 「イエスが私たちを救うために、私たちと共にいることを知っています。 そしてそれを信じているからです」と。 アーメン。



         年間14主日 B   2018年7月8日   グイノ・ジェラール神父

            エゼキエル2,2-5  2コリント12,7-10  マルコ 6,1-6

  今日マルコは、幼少期や青年期の時からイエスをよく知っている人々の所へ私たちを連れて行きます。 イエスの仲間たちは「このイエスは一体どんな人でしょうか」、「彼の知恵と奇跡を行う力と権能がどこから来たのか」と自問しています。 私たちもこの重大な質問から逃げることができません。 イエスの由来と事実を理解するために、仲間の絆や親戚の繋がりだけでは不十分です。

  イエスは30数年間以上マリアとヨセフを父母として、ナザレの村で暮らしました。 数時間前にイエスが多くの人々に教えた会堂は、子供の頃親しい仲間たちと一緒に律法や社会性の根本的な規則を学んだ会堂でした。 しかしイエスは全人類に与えられている神の賜物です。 イエスの知恵と権能、そして奇跡を行う力は私たちを救うためにイエスを遣わされた父なる神に起源を持ちます。

  ナザレの人々がイエスを全く理解できなかったので、イエスの宣教活動は大きな失敗をもたらしました。 奇跡を一つも行わずに、イエスはふる里を出て行きました。 もう二度とここには来ないでしょう。 聖パウロも福音宣教をしながら、自分の教えがどれほど無視され、自身も侮辱され、迫害され、理解されなかったかについて何度も証しをしました。 私たちもイエスや聖パウロと同様に、自分たちの失敗を承諾し、理解されないことを受け入れることが必要です。 揺るぎない信頼を抱いて、自分の弱さに神が注がれる力を素直に受け止めることを学びましょう。

  洗礼によって私たちはキリストの母・兄弟・姉妹、言い換えれば、イエスの家族となりました。 果たして私たちは、イエスをもっと深く知るように、もっと親密に出会うように聖書を読み、いつもより長く祈る時間を取るようにしているでしょうか。 個人的にイエスと出会うことは、愛する力を生み出し、深い喜びを味わせます。 ですから、ナザレの人々のようにイエスについて持っている偏見や知識を忘れて、新しい眼差し、新たにされた考えを受けるすべての可能性を探し求めましょう。 信じる者には、私たちの鈍さやイエスと親しく生きたいと思いつつ、怠惰に過ごしているにも関わらず、イエスは必ず私たちの期待を適切な時に遅れずに満たすでしょう。 私たちはイエスの家族の一員となったのですから。

 何でも知っていると思い込んで、「それはこう、これはこう」と結論を決める人は全く信仰がありません。 真の信仰はいつも成長し、いつも新しい知識を求めています。 イエスについて自分の知識を深めるキリスト者は、自分の信仰を強め・養い・育てる人です。 ナザレの人々はイエスがあらゆる観点から見て異なっていたことを素直に認めなかったので、イエスを理解できませんでした。 ところが十字架のもとで立っていたあの百人隊長は、イエスを嘲笑し、ののしり、侮辱していた人々の無礼な言葉に耳を傾け無かったので、彼はイエスを見て自問した上で「本当に、この人は神の子だった」(参照:マルコ15,39)と叫びました。その日、この百人隊長だけがイエスの神秘を理解し、発見しました。

 知識の進歩を妨げる拘りのある確信を私たちが持たないように、聖霊の助けを願いましょう。 このような確信は、神も他の人々も真理のうちに出会い、知ることを妨げるからです。 特にこのような拘りのある確信は、平安な自由な心で愛することも妨げるのです。 何とかしてイエスを親しく知る私たちの行動的な希望が、私たちが抱いている偏見や強い確信に打ち勝ちますように。 アーメン。



          年間15主日B年   2018年7月15日   グイノ・ジェラール神父

              アモス 7,12-15    エフェソ1,3-14   マルコ 6,7-13

 イエスは自分の弟子たちを宣教のために遣わしました。 彼らが持つべきものと持って行ってはいけないものについて、少し考えたいと思います。 まず、弟子たちは邪魔になる荷物を持ってはいけません。 弟子たちが神の摂理だけに寄り頼むようにこの乏しさはとても役に立ちます。 またこの貧しさは弟子たちの証しを信じやすく、信用できるものとします。 キリストを証する人々は神に寄り頼むことを学ばなければなりません。 弟子たちも、キリスト者も「取るに足りない僕であり」(参照:ルカ17,10)「土の器に宝を納めている」(参照:2コリント4,7)からです。

 更に、乏しさは偉そうに与えるよりも、謙遜に受けることを弟子たちに教えています。  と言うのは、弟子たちは出会う人々を自分たちの寛大さで満たすために遣わされているのではありません。 むしろ人々から何かを受け止めるために遣わされています。 福音を伝え知らせることは、出会った人に「ご覧なさい、あなたに対してどれほど私は親切でしょうね」と言うことではありません。 むしろ「私にはどうしてもあなたが必要です」と打ち明けることです。

 遣わされた弟子たちは、杖を一本持つことが許されています。 この杖は、蛇や野生動物や強盗を追い払うために必要だからです。 病人を癒し、悪霊を追い出すために弟子たちが遣わされているので、あらゆる悪に対してキリストから力と権能を受けたことを彼らははっきりと人々に見せなければなりません。 弟子たちの杖は「モーセの杖」を思い起こさせます。 モーセが昔行ったように、弟子たちも悪の攻撃からご自分の民を救う神の愛の力と慈しみを表す使命を受けたからです。

 疲れずに無事に歩くために、弟子たちは「履物、サンダル」を履くことも許されています。 弟子たちの使命は厳しく、宣教の道のりは長いので、弟子たちは自分の体の健康を大切にすることで、成功する可能性を手に入れるのです。

 ただ一枚の下着を着ることによって、弟子たちが父なる神に愛され、遣わされていることを表します。 また、委ねられた使命を果たすために「神の子の資格を受け」(参照:ヨハネ1,12)「キリストを衣として着ている」(参照:ガラテ3,27)こと、「聖霊で満たされている」(参照:エフェソ5,18)ことも、この唯一の下着は表しています。

 イエスは弟子たちを二人ずつ遣わします。 キリストの時代には、証しや話が真実であることを確認するために二人の証言が必要でした。 しかし難しく、疲れを与え、エネルギーをたくさん必要とする宣教の使命を果たすために、二人で行動すればお互いに助けと励みになることは確かです。 またそれは一致の印となります。 なぜなら、同じ話しをし、同じ救いの業を行うために、互いの理解と努力が必要ですから。 「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」 (参照:ヨハネ13,35)とイエスは言いました。

 「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」 この態度は軽蔑や拒絶を示しているのではありません。 「足の裏の埃を払い」と言うのは、「あなたたちが私たちに与えるものしか受けません。 ですから私たちのサンダルに付いているこの村の塵を返します」と言うことを意味しているのです(参照:ルカ10,11)

 神は私たちを愛し、私たちのために最も良いものを望んでいます。 私たちは皆、全ての人に福音の良い知らせを伝えるために、キリストの名によって自分が住んでいるところへ遣わされています。 ですから、謙遜に、喜びの輝きを持ち、神の摂理に強められて、恐れずに、自分たちの周りに神の愛の素晴らしさを宣べ伝えましょう。 アーメン。



            年間第16主日 B    2018722日   グイノ・ジェラール神父

                  エレミヤ23,1-6  エフェソ2,13-18  マルコ6,30-34

  神は思いやりのある慈しみ深い羊飼い(牧者)です。 日常生活の試練に直面しているご自分の羊の群れが勇気を取り戻すために、神はその群れを憩いの牧場に連れて行きたいのです。 バビロン地方に散らされたイスラエルの民に、預言者エレミヤは神の慰めの言葉を宣べ伝えました。 イスラエルの民を指導する人がいないので、神ご自身が今から後、ご自分の民を集めそして平和と安らぎへ導くと約束しました。

  自分に従って歩む人に平和と憩いを与えるイエスは真の良い牧者です。 教えるため・癒すため・平和のうちに導くためにイエスは自分の周りに大勢の数えきれないほどの人々を集めている方です。 エフェソの信徒への手紙の中で、聖パウロはキリストが与えるこの平和について述べています。 「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」と。

  イエスが群集に教えるとき、その話は長く続く気がします。 しかし、イエスは人が疲れるほど長く話すよりも、信仰を養い日常生活に役に立つことを色々と教えています。 イエスの口から湧き出る知恵の言葉が人々の心を動かすので、彼らはもっと長く聞きたいと思いました。 というのは、イエスの言葉は聞く人々に平和と安らぎを与えるからです。 もし、私たちが神の言葉への飢えと渇きを持てば、勿論神とそして自分自身と、他の人々と平和のうちに憩いを味わうことができるでしょう。 「だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう」(参照:マタイ11,28)とイエスは誘います。

  自分に従った群集に平和と安らぎを与えるイエスは、宣教のために遣わされた自分の弟子たちにも当然安らぎを与えます。 さあ、あなた方だけで人里離れたところへ行って暫く休むが良いとイエスが勧めました。 確かに弟子たちがとった休みの時間は非常に短時間でしたが、彼らがもう一度福音宣教を続けるために十分でした。

  私たちも夏の暑さの中で元気であるように、力を受けるように、憩いを与える場所、また力を取り戻す期間を見つけなければなりません。実に、冷房が与える体のリフレッシュよりも、祈り、神の言葉の黙想、あるいは様々の小教区の巡礼はこの世が与えることができない真の平和と安らぎを与えられるでしょう。 それは、神のうちに憩うことと言われます。

  肉となったキリストは、平和と安らぎをもたらす神の生きているみ言葉です。 歓迎されても、拒否されても、心と精神の糧としてこの言葉は全ての人に提案されています。 イエスの言葉は、聖書を悟らせるために人の心の目を開き(参照:ルカ24,45)ます。 またイエスの言葉は、神を知る飢えと渇きを与えながら、神を深く愛する恵みも与えます。 キリストの言葉を聞く人は、自分のうちに安全な内面的な空間を作り、そのお陰でその人は霊的にも身体的にもバランスをとった自分を建て直します。 イエスこそが良い牧者であり、私たちの力を新たにしながら平和と安らぎを与える人です。 聖霊降臨の祝日に私たちが歌ったように、イエスが与えた聖霊のお陰で私たちは「さわやかな憩い、揺るぎないよりどころ、苦労するときの励まし、熱のあるときのやすらい、うれいのときの慰め」(参照:聖霊の続唱」を受けているのです。 アーメン。



           年間17主日 B年  2018729日   グイノ・ジェラ−ル神父

               2列王記 4,42-44   エフェソ 4,1-6     ヨハネ 6,1-15

  私たちが与えることが出来るできる限りの物を与えることや、計り知れないほど受けることこそが、イエスが教えている知恵の道です。 預言者エリシャはもらったばかりの二十個の大麦パンを配ることによって百人の人々を養うことができました。 そして残りは十分ありました。 イエスも、青年が持っていた五つの大麦のパンと二匹の魚で五千人の人を満腹させて養い、残りもたくさんありました。

  毎日私たちは食べる必要性の前に置かれています。  生まれた日から私たちは他の人から日常の糧を受けました。神が私たちを造られたのは、与えるため、そして受けるために、また食べるため、食べさせるためです。今日イエスは自分を囲んでいる群衆に本当のご馳走を与えました。 青い草の上に群衆を座らせてから、イエスは自ら人々を温くもてなします。 イエスは本当に平和と安らぎ、食事と慰め、癒しと力の回復を与える良い牧者です。

  預言者エリシャの恩人も福音の青年も名前は知られていませんが、彼らが持っているよよものをエリシャあるいはイエスに与えることによって信頼を示しました。 彼らは持っていた食べ物を利己主義的に自分のものだけにせずに、それを分かち合ったので驚くべき豊かな結果をもたらしました。 彼らがしたことは誰にでも同じようにできます。 私たちも一切れのパンや一握りのお米や一杯の冷たい水を与えることができます。 大切なのは、世界の群衆を養うことではなく、むしろ身近な人々に自分の何かを与え分かち合うことです。「飢えた人にあなたのパンを裂き与えなさい」(参照:イザヤ58,7)と聖書が教えています。

 「主よ、あなたはときに応じて食べ物をくださいます。 すべて命あるものに向かって御手を開き、望みを満足させてくださいます」(参照:詩篇145,15-16)と今日の詩篇が思い起こさせます。 この詩篇は「最初に私たちを養うのは神です、しかし神は私たちの協力を要求する」ということを教えています。 また「神は私たちの全くできない無力なことを利用して、それが不可能と思われる驚くべきことを簡単にできる」と聖書全体も教えています。 「何かが足りない」という恐れに対して、神は私たちをいつも勇気づけます。

  分かち合った物が考えられない、驚くべき結果をもたらしたことを今日の二つのパンの増加の物語ははっきりと示しています。 大勢の人を圧迫する乏しさや経済的な問題を解決するために、この事実が世界の支配者たちに知恵を与えればと思います。 毎年、疫病と自然の災いにあった人の数よりも、飢えでなくなる人の数の方が多いのです。事実、飢えを無くすために世界の天然資源と食糧で十分です。 問題は所有の分配です。 自分の所有しているものを分かち合うことは簡単ですが、それはすべての人の自由に任せられています。

 このように考えると私たちは自然にミサの事を思い出します。 ミサで私たちが捧げるパン、私たちがいただく命のパンは,私たちにご自分の命を分かち合う神の神秘の中に私たちを招き入れるのです。 ほんの少しのパンは私たちに永遠の命の門を開くのです。 ですから、完全にご自身を与えるキリストを受け止めるために、私たちが与える事が出来るできる限りの物を与えること計り知れないほど受けることも承諾しましょう。 そして 聖パウロが教えている通り、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持って、愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊によって一致を保つように努めましょう」。 また、「人々の貧しさを自分のものと考えて力を貸し、手厚く人をもてなしましょう」(参照:ローマ12,13フランシスコ会訳)。 アーメン。



      年間18主日 B年  201885日    グイノ・ジェラール神父

         出エジプト16,2-412-15  エフェソ4,1720-24  ヨハネ6,24-35

  「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(申命記8,3)と聖書は教えています。自分の方へ来る人たちは養われるために来ているとイエスは考えたに違いありません。しかし、群衆はイエスの話を聞いてその教えで自分を満たすことを望んでいます。そのためにイエスの咎めを聞いて彼らは次のようにはっきり自分の望みを示します。「神の業を行うためには、なにをしたらよいでしょうか」と。モーゼの時代、砂漠でなにもせずに天から下ってきたマナを待っていた自分たちの祖先とは違って、キリストのそばに集まっている人たちは、何かをすること、また働くことが必要だとよく知っています。

  イエスは長く話すことによって、彼らの質問に答えようとします。特に、彼らが過去を懐かしがるよりも現在の事実に生きるようにイエスは誘いながら導きます。日常の糧から永遠の命のパンまで、また物事を要求することから神を探し求めることまで、導きながらイエスは望みを持つ人として彼らを励まします。現在の私たちは物事に満足した考え方を持っているので、もはや飢えと渇きを感じません。私たちにとって最も必要なものは霊的なパンです。このパンとは、神のみ業を行うことを可能とする信仰です。しかし、神の業を行うために、私たちは絶えずその信仰を養うことが肝心です。

  私たちの望みが良い方向を取るようにイエスは望んでいます。物質的な物の要求に足踏みしないようにイエスは神への道を教えます。神だけが私たちが想像することより遥かに、私たちの飢えと渇きを満たすことができます。ですからこの夏の間、父なる神に信頼を持って自分の持っているすべての望みを打ち明けましょう。

  エフェソの信徒への手紙の中で、私たちが古い習慣と自分を惑わせる望みを捨てるように、そして新たにされた霊によって内面的に導かれた新しい人となるように聖パウロは私たちを誘います。特に永遠に私たちを養う最も霊的に必要なものを探し求めるように聖パウロは強く誘います。なぜなら、物事から離れない望みを満たすことは不可能であり、そしてそれは死を引き寄せるからです。むしろ神への望みは人を完全に満たす命の泉です。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して乾くことがない」とキリストは約束しました。

  日常生活の細々とした望みや野望などを忘れて、霊的な物事に自分の心を開くことは簡単ではありません。ですから、私たちを導くためにイエスはご自分の命の言葉を私たちに提案します。また私たちを力付けるために、ご自分の復活された体を私たちに与え、私たちを聖化するためにイエスは真理の霊を豊かに注ぎます。父なる神が無限の愛と永遠の命で私たちを満たすように、物質的な物よりも聖霊とイエスの現存を探し求めることを学びましょう。この世では生きることの助けであり、そして永遠に生きることを準備している霊的な賜物を探し求めるために、私たちの信仰を生き生きとしたものにしましょう。アーメン。



       年間19主日  B年  2018812日   グイノ・ジェラール神父

             列王記上19,4-8   エフェソ4,30-5,2    ヨハネ6,41-51

  私たちの心から無慈悲(悔しさ)、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを追い払って、キリストのように愛に生きるように、聖パウロは私たちを誘っています。この悔しさは神の力で強められた預言者エリヤを落胆と絶望に導きました。ある女の怒りを避けるために、預言者エリヤは臆病者のように遠い所まで逃げました。くたびれた彼は、砂漠の砂に倒れ、死を願いました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」と。

  愛を注ぎながら、神はご自分の預言者に勇気を取り戻させます。神の与えたパンを二回食べた後、預言者エリヤは砂漠の中で長い旅の目的地に辿り着いた時、静かにささやく風の音を通して、神は彼にご自分の神性を親密に啓示しました。同様にイエスが与えるパンは、人を力付け、勇気を与え、すべての試練を乗り越える可能性を豊かに与えます。特に永遠の命のパンは、私たちの内に親密におられる神の現存を深く味わわせます。

  命のパンであるイエスが、私たちを無慈悲(悔しさ)、憤り、怒り、わめき、そしりなどから守ることを信じるのは簡単ではありません。キリストの時代に生きていたユダヤ人は、ナザレのイエスが神から遣わされた者で、彼が神の子であることを信じることはとても難しいことでした。なぜなら、ナザレの人々は皆イエスの子どもの時を知り、イエスはヨセフの子だとよく知っているからです。ナザレの人々にとってこのイエスが人を生かし、復活させる命のパンであることを信じるのは、至難の業で到底無理でした。

 そういう訳で、イエスは私たちが信じることができるように助けに来ました。預言者エリヤは神が差し出したパンを承諾して食べたので、神の神秘を親密に知ることができました。私たちもイエスの手が差し出すパンを承諾していただくなら、キリストの内にあって共に親密に一つの体、一つの心、一つの霊になります。

 神を自分の目で見るために預言者エリヤは四十日間歩きました。キリストの聖体は巡礼者であり、永遠の命を目指してこの世で旅路を歩み続ける私たちの糧です。「これを取って食べなさい…これを受けてのみなさい」とイエスは各ミサ祭儀で誘います。確かにこのパンを食べるなら私たちを立ち上がらせ、力付け、神の光が私たちを完全に照らす日まで、暗闇の中であっても歩み続けることができるのです。

 神の親密さの内に入ることができるために、永遠の命のパンであるイエスは私たちが全てを自己中心にしないようにさせます。「神の小羊の食事に招かれている私たちは幸いです」。ですから、神の手から命のパンをいただく度に、大いにそして謙遜に神に感謝しましょう。事実、神の内だけに私たちの命、平和と喜びが完成されます。ですから、アッシジの聖クララのように私たちも叫びましょう。「我が神よ、本当にあなたの内にだけ、私は私自身です」と。あるいは、聖アウグスティヌスと同じように叫びましょう。「私の内におられるイエスは私よりも、私自身です」と。アーメン。



       年間第20主日  B年  2018819日  グイノ・ジェラール神父

              箴言 9,1-6    エフェソ 5,15-20   ヨハネ 6,51-58

  「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい」と箴言の書の知恵が誘っています。しかし聖パウロはエフェソの信徒への手紙で「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」と忠告しています。知恵が提案する食事と酒は、賢明な豊かさです。「愚かさを捨て、命を得るために分別の道を進むために」と智恵は招きます。聖パウロは酒が与えるあまり良くない酔いよりも、聖霊が与える霊的な酔いを探し求めるように誘います。

 聖書全体は真の幸せに導く道を見つけ、歩むように人々を招きます。この道は知恵と愛の道であり、神による賢明さの道です。聖パウロは今日このメッセージをもう一度聞かせています。「皆さん、愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」と。神の知恵を探し求めることの内に深い喜びがあるので、それ以外のものを求めないように勤めましょう。

 ところが、聖ヨハネは愚かな話と思える不思議なメッセージを聞かせています。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」と。この話が愚かな話だと思っても、この言葉は神の知恵をはっきり現しています。「神の愚かさは人よりも賢いです」(1コリント1,25)と聖パウロは証ししています。キリストのように賢くなることとは、完全に、愛に自分自身を引き渡すことです。キリストのように賢い人は、命のパンである聖体の内に知恵を汲む人であり、聖霊の教え導きに自分の心を開く人です。そのような人は、必ず神の無限の愛に辿り着きます。

 全人類を救うために、愛によってイエスがご自分の命を捧げたことを理解して、キリストの御体をいただく人は、いつか自分自身をも与えることを望んでいることを示しています。と言うのは、キリストの体を食べる人は、キリストによって生きたいという決意を表しているからです。なぜなら、キリストの体を食べることによって、キリスト自身となるからです。聖体拝領をするキリスト者は、聖パウロと共に「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが、わたしの内に生きておられるのです」(ガラテ2,20)と宣言します。

  キリスト者にとっては、聖体の内にキリストの本当の存在を信じることだけでは十分ではありません。聖体の秘跡の信仰がそのキリスト者を変化させなければなりません。また、聖体の秘跡の内に全人類のために実現されているキリストの奉献を認めることだけでも十分ではありません。その知識がキリスト者を養い、霊的に成長させなければなりません。キリスト者がキリストの体を受けることで、新しいキリストとなり、信仰の兄弟姉妹の前に、言葉と行いによって神が与える知恵を表す使命を受けています。感謝の内に聖体の秘跡を深く理解し、その神秘に生きていきましょう。アーメン。



    年間第21主日 B年  2018826日  グイノ・ジェラール神父

     ヨシュア24,1-215-18  エフェソ5,21-32  ヨハネ6,60-69

  パンの増加を目撃した群衆は、命のパンについてのキリストの言葉を聞いて「彼の言うことはまったく解かりません」と言って、あっという間に散らばって行きました。 しかし、まだ主なグループの弟子たちとイエスに味方する人々は残っていました。 この人たちはカファルナウムの会堂の中までイエスに従って行きました。 しかしイエスの第2の話を聞くと「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言って、彼らも皆散らばって行きました。 とうとうイエスは1人になってしまいました。 しかし、12人の弟子の名によって聖ペトロが宣言する信仰は、イエスにとっては慰めと大きな励みになりました。

 信仰は人々に与えられた神の賜物だとイエスは断言しました。 「父からの許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と。 イエスの言葉は、決してある人が選ばれ、他の人が選ばれないということを教えているのではありません。 むしろ限りのない愛のおかげで父なる神はすべての人に呼びかけ、皆に信仰の賜物を与えようとします。 しかし、信仰は強制的なものではないので、人が自由にそれを選び、また拒むこともできるので、個人に責任があります。 この選びは理論的で理想的なレベルに人々を導くのではなく、むしろ信じる者が具体的に全人類の道をイエスと共に歩むように誘っているのです。

 そのためにイエスは自分の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と言い、そばに残るのか、遠く離れるのかという自由な選択を提案します。 ある弟子は裏切ること、他の弟子にとっては信じることが至難の業になるということをイエスはよく知っています。 しかし、イエスは残るか離れるかのどちらかを選ぶように、誰にも選択を強制していません。 「もし私から離れたいとしたら、どうぞご自由に」とイエスは言いました。 そこで揺るぎない信頼を持ってペトロは自由に答えます。 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と。 その時から残った弟子たちはイエスと共に終わりまで歩み続けました。

 ご存知のように、イエスは従っている人のそばに立っているだけではなく、聖体拝領によって彼らの内に留まっているのです。 したがって、キリストの体を食べキリストの血を飲むことは避けられないとても大切な務めであり、それはキリストによってキリストの内にキリストのように生きるためです。 具体的に言えば、もし私たちが持っている信仰がカテキズムで学んだ考えや教えや思想に基づいているだけであれば、この信仰は非常に欠けたものです。 同様に、私たちの信仰は神への飢えと渇きでなければ、また神の愛に満たされた出会いでなければ、それも信仰とは言えません。 私たちの信仰は知的な決意、あるいはよく考えた上での決定であるかもしれませんが、もしこの信仰が神と親密に具体的に結ばれていなければ、それは机上の空論の信仰であり、真の信仰であるとは言えません。

 信じる人は完全にキリストに捕らわれることを望み、完全に自分のすべてをキリストに委ねようとする人です。 イエスとの信仰の繋がりは、決して私たちが持っている人間的な絆を無視したり、破壊するものではありません。 むしろ、その信仰のおかげで私たちが持っているものはすべて高い値打ちを受け、そしてイエスの内に正しい立場を見つけます。 言い換えれば信じること、それはイエスと共に日ごとに親密に歩むことですから、イエスが行なったように信じる者は自分の命を与えることを強く望むことです。

 キリスト者にとっては、絶えずイエスと親密に出会うこと、イエスについて新たにされていく知識を養い育てることが日常の大事な務めです。 イエスが宣言する命の言葉を聞くこと、イエスの御体と御血で自分を養うこと、これこそが具体的に信じるということです。 これについて、イエスははっきりと教えています。 「わたしの言葉を聞き、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させます」(参照:ヨハネ5,246,54)と。 アーメン。



    間第22主日  B年   2018年9月2日   グイノ・ジェラール神父

申命記 4,1-26-8  ヤコブ 1,17-1821-2227  マルコ 7,1-814-1521-23

 聖書の中で清潔に関する定めをたくさん見つけることができます。 しかし、この定めはイスラエルの民の清潔のレベルをはるかに超えています。 「聖なる者となりなさい。 主なるわたしは聖なる者だからです」(参照:レビ記20,26)。 「わたしはあなたがたにとても近い神ですから、あなたがたがわたしに近くなるように清潔の定めを守ってください」と、神は願っています。 そのために、昔の外面的な清潔の必要性は段々守るべき定めとなり、そして清くなる目的よりも神の前で汚れのない、聖なる者になることが義務となってしまいました。

 その後ギリシャ人の占領の時代になると、イスラエルの民が異邦人との繋がりがないように、いつまでも清い、聖なる民であるように求められます。 昔、祭司たちとレビ人だけに要求されていた清めの規定は、国民全体に押し付けられました。 従って、人が物を触るとすぐ手を洗う必要性があり、異邦人と出会えばすぐ体を洗うべきでした。 そうしないと、神から離れた不潔な者となるのです。 手を洗うことだけで人が清くなるものではありません。 しかし、人々がそのように思っていたので、イエスはこの偽善的なやり方を終わらせようとしました。 外面的な行いは人の内面的な状態を表さない限り意味がないからです。

 悪は人間の心の中で作られているとイエスは教えます。 人を不潔な者にするのは「悪い思い、みだらな行い、盗み、殺意、姦淫(かんいん)、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、高慢、無分別など」だとイエスははっきり言っています。 イエスの教えは普通に人々が考えていることと全く違っています。 私たちは自然に悪が人間の外にあると思っています。 悪は社会のやり方の中、或いは他の人の言葉や態度や行いにあり、自分自身以外に悪はどこにでもあると私たちは信じています。

 そういうわけで、外から来る危険やバイ菌やウィルス、あるいは公害で汚染された空気などから私たちを守るようにします。 しかし、私たちは人間の心から湧き出るもっと危ない悪いものから自分を守るようにそれほど努力しません。 平和と正義の社会を作ることはとても良いことですが、それができるためには、先ず人々の心を清くすることが必要です。 イエスが福音宣教を始めた時にこの言葉で人々の心を新たにしようとしました。 「悔い改めて、福音を信じなさい」(参照:マルコ1,15)と。 つまり「あなたがたの振る舞い、あなたがたの考え方を新たにしてください」と、イエスは求めていました。

 自分の心を変えるために、聖ヤコブは神の言葉に耳を傾けるように私たちを誘います。 神の言葉だけが私たちの心を変え、私たちを救うことができるからです。 聖ヤコブにとって、「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」。

 ですから、神にとても近いキリスト者の聖なる共同体となるために、お互いにお互い同士が祈り合いましょう。 ファリザイ派の人々の心を満たした偽善から、神が私たちを守ってくださるように切に祈りましょう。 更に、神は私たちにご自分の心を与えてくださることを固く信じましょう。 そうすれば、神が私たちを愛しておられるのと同じように私たちも愛することができるのです。 アーメン。



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